キリスト教

カトリック教会に入ることをためらっているあなたへのアドバイス2

京都にお住まいの40代の女性のクリスチャンの方から、生い立ちと洗礼をうけきっかけについて寄稿いただきました。
メッセージは、「キリスト教会に固定観念持っていませんか?教会の敷居は意外に低いんです」です。
お子様を育てていらっしゃる時のエピソードをみると、祈るというのがどういうことかよくわかります。

 

「なんとなくキリスト教的」な神様のイメージ

 

私は京都府に住む40代後半の女性です。1970年代初頭の生まれです。

実の父親がカトリックの洗礼を若い頃に受けていましたが、社会人以降は教会に通っていませんでした。娘の私にも特に幼児洗礼は受けさせていません。

もっとも、父はミッションスクールの同窓会で神父様方との交流は続けたり、自宅に聖書やロザリオなどを飾っていたり、信仰を捨てたわけではないようでした。ただ、家族に特にキリスト教について話すことはありませんでした。

私の子供時代は、父を通じてキリスト教が身近ではありつつ、個人的には特にキリスト教との接点が無い状態でした。

この辺は、幼稚園など通っていた学校がキリスト教だった人と近いのではないでしょうか。教会とご縁がなくても、「神様」に、なんとなく「白髪と白髭の白人のお爺さん」というイメージを持つ人も多いでしょう。

私の「神様」のイメージも「なんとなくキリスト教的」でしたが、その程度でした。

若い頃の「怖い父親」「一神教だから排他的」という固定観念

私が高校・大学生だった1980~90年代は、今のようにインターネットもなく、マスコミなどを通じて社会に発信できる人は著名人に限られていました。

クリスチャン作家や文化評論家といった人たちが、「日本と西洋」という比較文化論的な文脈でキリスト教を語っている場面が多かったと思います。

私が記憶しているのは、キリスト教は「罪を裁く父性原理が強い」「一神教だから排他的」なのに対し、日本社会は「何でも曖昧に許容する母性的な社会」「多神教で様々な宗教に寛容」というものでした。日本社会とキリスト教は異質なものだという理解です。

当時の私は、キリスト教が身近である一方、社会全体には「日本人には分かりえないし、分からなくてもいい」という風潮があると感じており、具体的に接点を求めることはありませんでした。

3.ネット社会の恩恵で、「神は愛」というメッセージに出会いました

 

神様を求めるときは、人生が辛いときです。私にとっては、出産して母親になってから苦しさと孤独を強く感じるようになりました。2010年前後の頃です。

子どものために良い教育環境を探し、家庭教育やしつけに頑張ってはいました。ただ、子育てに正解はありません。夫は「手伝い」はしますが、育児の采配を振るのは私一人です。子育て初心者の私にとって、手探りで一つ一つ子どもの人生を背負って歩くことは、本当に孤独な営みでした。

学校生活や受験などについては、学校や塾の先生と相談しながら進めていました。一方で、どうしても埋められない孤独は、近くのカトリック教会の礼拝堂でお祈りすることで慰めを得ていました。

近くのカトリック教会は、夜中でも敷地や礼拝堂に出入り自由で、私は通りがかりにふらっと立ち寄って、祭壇に向かい手を組んで祈っていました。現実的な問題は専門の相手に相談していましたから、教会ではただひたすら「どうか私の傍にいて、私を愛し憐れんで下さい」と祈っていました。イエス様の像を見上げた時、微笑んで下さったように感じて嬉しかったこともあります。

やがて、子育てに一段落つき、教会に定期的に通おうと、自宅近くの教会をインターネットで検索してみました。

この時の私の感想は「キリスト教って優しいんだ!」という驚きでした。あちこちの教会が、「神様は慈しみ深く私たちを愛して下さる」「罪人とされながら赦しを願う人にこそイエスは寄り添ってくださる」というメッセージを発信されていました。

若い頃の「神様は罪を裁く父親的で怖い人」という固定観念は覆され、それなら安心して教会に通えると感じることができました。

ネット社会には負の面もあるかもしれません。ただ、一部の著名人しか情報を発信できなかった時代と異なり、日々、日本社会を生きる市井のキリスト教会関係者のメッセージを直接受け取れるようになったことは私には幸いでした。

4.「人を赦さないといけない」「人格者でなくては」という固定観念

 

私は、あるプロテスタント教会の礼拝に通うようになりました。当初、私には、洗礼を受けるには「立派な信徒でなくてはならない」という思い込みがありました。私の「立派な信徒」のイメージは「相手を赦す」「人格者である」「常に堅い信仰を持つ」などです。

このような思い込みは、実際に教会に通うことで薄れていきました。

「人を赦す」ことは大事ですし、「赦せない」という怒りの感情を手放すことは自分のためでもあります。でも、そうできないのなら、「できない弱さを認め、神様に赦していただき、人を赦せる自分に作りかえて頂くよう祈る」と学びました。

人格者であることについても同様です。目指すべきですが、残念ながら人間は完璧ではありません。それも、神様に打ち明け、赦して頂きつつ、祈りの力でよくなりたいと願うことが大事だと教わりました。

また、私の通っている教会では、牧師様も年配の信徒の方も「神様に委ねきれない自分がいる」「信仰は一生。信じ切れるようになるまでまだまだ時間が掛かる」「信仰につまずくときもある」と忌憚なく口にできる雰囲気があります。

このように聖書を学び、牧師様や他の信徒の方とお話をしているうちに、私の気負いも薄れました。未熟で、不完全でつまずきながらでも、神様を求めて信仰の道を歩むことができるのだと思うようになったのです。

4.すぐに洗礼「させられる」こともありません。

 

約1年半教会に通うことで固定観念や思い込みが薄れ、他の信徒の方ともお話するようになりました。だんだん「私の教会」という親しみがわいてきた頃に、牧師様から「洗礼を受けられてはどうですか」というお話が出ました。

ただ、この教会にとっては変則的なことで、普通は牧師様の方からはお声はかけないそうです。長く通って洗礼を考えるようになっても、教会から促されるのを待っていたため、牧師様が気づかずタイミングが遅れてしまった方もいるくらいです。

私については初めから「実父が信者だったのでいずれは洗礼も考えている」とお話していたので、「そろそろかな?」と思ってお声がけ下さったそうです。ただ、こうして最初に意思表示をしていても1年半はそのままでした。

「教会に通ったらすぐに洗礼を受けさせられるのでは?」と思っている方には、普通はそんなことはないと言って良いかと思います。

また、洗礼を受ける際、私が他の家族の宗教とのかかわり方をお尋ねすると、「隣人愛から他の宗教とも共存していきましょう」とのことでした。

キリスト教会全体としても他の宗教との対話と共存を図っていらっしゃいます。ましてやキリスト教が少数派の日本で「一神教だから排他的」という態度は現実的ではありません。キリスト教徒になるからと言って、別の宗教を否定することを強要されはしません。

キリスト教には様々な固定観念があるかもしれません。ただ、それらは実際に教会に通い始めれば覆されると思います。今はネットで色んな教会のスタンスを知ることができます。たいていの教会は気軽に訪れることを歓迎されているはずです。それを信じて一歩踏み出した時、孤独を癒し、不完全でも愛して下さる神様と出会うことができると思います。

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Faust
1980年代生まれで東京都府中市育ち。大学は物理化学専攻してメーカへ。 Engineer of Python, Angular. Analyzing data and building app at Awesome Rainbows LCC. #SDGs #Python

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